おはようございます。今日は雨です☆
ふと、ワークショップで取り上げた、酒井抱一の代表作「夏秋草図屏風」を思い出しました。
日照りが続いた後の雨は、人も草も癒やされたんだろ〜な・・・☆
当時は、まして旱魃で飢餓に苦しんでいる中だったら、どんなに救われた気持ちになっただろう・・なんて想像していました。
私事で恐縮ですが、急遽、姪っ子ちゃんの保育園探しに 名代で私が今週 浜松まで
車で行くことになりました☆ 衝撃・・・
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さて、今日も吉原の続き!!今日は吉原の有名な遊女のお話です☆
吉原でもっとも有名な遊女の名は、『高尾(たかお)』です。
当時、遊女の中には、優れた先輩遊女の名称を受け継ぐ人もいたようです。
高尾の名も、代々襲名されていました。
「有名な遊女、高尾」というと、【2代目 仙台高尾】のことを指すそうです。
仙台62万石の藩主 伊達綱宗(だてつなむね/1640年〜1711年)に身請けされたため、
そう呼ばれているそうです★
高尾を抱える三浦屋は、高尾の体重と同じ重さの小判を要求し、
伊達綱宗は、膨大な金を積んで、高尾を身請けしました。
(すごい金回り!!)
ところが、船で帰郷中、高尾に情人がいることを知った
綱宗は激高し、高尾を吊るし斬りにしたと言われています。
ただし、様々な諸説がありますが、実際は 高尾は19歳頃の若い時に、
病死をしたそうです。
(え・・若過ぎ・・・)
そしてなんと、高尾が想いを寄せていた情人は、
埼玉県坂戸市にある永源寺の開基島田家の権三郎という人だったそうです★
(え?!あの坂戸で!?近いな!!)
島田権三郎は、伊達に高尾を横恋慕されそうになったため、
領地の坂戸に匿ったそうです。その後、病気になり、高尾は亡くなりました。
今も愛する権三郎の島田家の方に弔われながら、永源寺に眠っています☆☆☆
(たしかに大衝撃!!!近いな!!こんな身近に吉原遊女にまつわる話があったとは!!)
(参考 『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』)
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〜つづく〜
(酒井抱一作『夏秋草(なつあきくさ)図屏風』 東京国立博物館蔵)
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