おはようございます🌻
今日も暑いですね!!
私は一昨日から妹と姪っ子ちゃんと浜松に来ています★
保育園探しと温泉を堪能しています😊
さて、今日は、吉原の華、【花魁道中】についてについて書きたいと思います♪
ワックワク〜♪
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元吉原(人形町にあった元祖 吉原の別称。人形町の吉原は、新たに出来た浅草の新吉原に対し、『元吉原』と呼ばれるようになりました)では、高級遊女は「揚屋(あげや)」というお店に出向いて客を接待していました。
(ほ〜〜出向いていたのですね!!)
吉原で遊ぶ客は揚屋に落ち着き、そこに花魁を招いていました。
(ドキドキ・・♪)
呼ばれた花魁は、美しい衣装を身にまとい、遊女屋の雇う人など、
多くの供を従えて、華やかに揚屋までの道のりを行進しました。
これが、【花魁道中】の始まりです☆
花魁は才色兼備で、花魁遊びの格式は高かったそうです。
(さすが江戸っ子!粋な遊び〜🌈✨)
揚屋に上がった客は、まず、そこで酒宴を開いて揚屋の奉公人たちに
適当な額の祝儀を配ります。
祝儀が少ないと野暮とされ、多くても野暮とみなされたようです★
(大人社会あるあるですねッ)
そして、馴染みの遊女と一緒に飲むには、
揚屋の主人にお願いし、主人は、遊女に手紙を送ります
(手紙と言っても「差紙(さしがみ)」と呼ばれる、仕事上の形式的な手紙です)。
すると 若い衆(わかいし)が揚屋と遊女屋の間を何度も往復して
花魁の都合を伺い調整したのち、
華やかに着飾った遊女が、
紋の入った煙草盆など道具一式をもって、
奉公人や下級遊女等を引き連れ 行列をなしてやってきたのです。
(おお〜〜カッコいい!)
花魁道中というと派手なイメージがありますが、
当初は派手なものではなかったそうで、履物も、当時は高くはなく、質素な草履を履いていたそうです。
(そうなんだ・・)
江戸中期〜後期、吉原が大衆化していくと 揚屋が廃れていき、吉原道中はパレードとしての意味合いが濃くなっていきました★☆
〜つづく〜
(参考 『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』)
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(歌川広重 「江都名所 吉原桜之図」 太田記念美術館蔵)
(参考 https://otakinen-museum.note.jp/n/na7dcdc295884)
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