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🛳久里浜へ行ってきました⚓️✨

更新日:5月1日


埼玉では、今日は曇り空です☁


昨日からGWに入った方が多いとのことで、街が少し浮かれている様子がとても微笑ましく感じています。


さて、先週は川越藩の姫様:慈貞院宛の手紙について書かせて頂きました☆

その中で、夫である川越藩10代直侯公が実家の水戸徳川家との関係で苦しんでいる様子が伝わってきました★

   ※詳細はこちら→




結局、その後 直侯公は23歳の若さで亡くなるのですが、なんとも切なく…。

直侯公が ご実家:水戸徳川家の政争から川越藩を守ってくれていたのでしょうか…?

(川越藩がもし、1000人位亡くなった幕末の水戸の天狗党の乱に巻き込まれたら、大変なことになったことでしょう…(*_*) 素晴らしい殿✨)


幕末、川越藩では、戊辰戦争で筆頭老中の小河原左宮が、若い旧幕臣の脅しに屈し、一人静かに自刃し、亡くなるのですが、小河原左宮の心が少し分かった気がしました。

  ※詳細はこちら→ 川越藩と富津陣屋の所に書かれています



かつて若い殿を亡くした経験があったから、次の若い殿を守りたかったのかな…と私は今はそう感じています。


ところでですが、掲載が遅くなってすみません…先週、実は神奈川県の久里浜まで行ってきました!!!


川越藩の江戸湾防備について、もう少し知りたかったから行くことにしました♪


(久里浜です。横浜から電車で50分近くかかりました✨船が沢山あって、広々としていました)




(久里浜には、ペリー記念館がありました✨そんなのがあったのですね)


(1953年6月3日 ペリーが浦賀に来航。6月9日にはここ久里浜でアメリカの国書・無言の授受式を行う運びとなります✨藩としては、彦根藩を筆頭に会津、川越、忍藩が対応しました☆お馴染みの海防チームですね…笑 御固(おかため)四家体制といいます)


(江戸湾の奥には江戸城があったため、千葉の富津岬と神奈川の観音崎より奥へは決して外国船など入れさせませんでした。しかしペリーは測定という名目で、浦賀に船をとめ、品川沖まで入って、陸の測定を始めたらしいです。凄い強引さですね…😱⚡。川越藩はそれを受けて、急遽品川第一砲台担当となりました↓↓↓)

(翌年の1954年1月16日、ペリー艦隊は7隻連れて、国書の回答を聞くという名目で予定より1年早く再来航しました。またもペリーの強引な態度😱↑↑↑その時の図です。各藩出陣の厳重な警戒体制ですね…ただならぬものを感じます)


(次は横浜沖に停泊し、開国の協議を迫られ、3月3日、ついに幕府は日米和親条約を締結せざるを得なくなりました🚢)


(その4年後の1858年、孝明天皇の勅許を得ないまま、幕府は不平等条約:日米修好通商条約を締結し、続いてイギリス、オランダ、ロシア、フランスとも同一の条約を締結。急に外国に品や金貨が大量流出し、国内は物価上昇。経済の混乱が庶民の飢えに繋がり、一揆が多発。幕府や外国人への不満から、天皇を担ぐ尊皇攘夷運動が高まり、こうして260年続いた江戸幕府は瓦解しました🌳)


※了承を得て、掲載をしています


(川越城にいる家老詰所にある3体の人形です。真ん中が筆頭老中の小河原左宮です。このシーンは江戸湾防備、中でもペリー再来航時前後の、品川砲台について話し合っているシーンという設定らしいです★国運のかかった、相当緊迫したワンシーンだったのですね!!!!)



(久里浜から浦賀まで、3.5kmあるのですが、歩いてみました✨初夏のような天気でしたが、浜風が心地よくとても楽しい道のりでした!!!)



(↑浦賀港です。久里浜より小さく、浜辺に家があり、小さな田舎の漁村という雰囲気でした✨)



(↑浦賀港には、こんな可愛い鳥がいました✨日本とは思えないブルーの可愛い鳥さん★☆)


(実は、私は歩き疲れたこともあり、ここ浦賀の浜辺のベンチで休憩をしていました✨近くのコンビニで、アメリカンドックとメロンソーダを買い、異国情緒を愉しんでいたところ……上から鳶が急降下してきて、一瞬のうちに食べていたアメリカンドックをもっていかれました(;_;) そして、私の唇とほっぺた2箇所に爪痕を残されてしまいました✨帰り道は顔に絆創膏2枚張って帰る羽目に(´;ω;`)涙)

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