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🍓川越城藩主 松平直克のこと🍎

更新日:3月11日

今晩は✨

今日は暑かったですね☆^^;

お庭では、昨日まで蕾だったハクレンや水仙の花が、美味しいポップコーンのように開花してきました!!


さて作業はやっぱりやれて、一日3〜4時間・・・地道に資料館の準備をしています✨


今日は松山陣屋建設で最も重要人物『藩主 松平直克』についてパネルを作成しました✨


そこで 今日は一部を書いておきたいと思います!


去年の5月のワークショップでも取り扱ったので来てくださった方は内容が重複してしまい、恐縮なのですがご容赦下さい‥


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川越藩7代藩主 松平直克は、天保11(1840)年2月26日、築後国久留米藩9代有馬頼徳の13男として、江戸で誕生しました。

(意外にも九州ゆかりの殿様なのですねッ)


そして文久元(1861)年12月6日、22歳で川越藩6代藩主松平直侯の婿養子となり、家督を継ぎました。

直克の人生の開花は何かというと、やっぱり24歳という若い時に大老級の「政事総裁職」に任ぜられたことだと思います✨しかも、松平家という親藩大名でありながら、幕末ならではの 超異例の大抜擢でした☆☆


その後、孝明天皇より横浜鎖港問題の責任者を任命されました。

(どれほど誉れだったか…察しても余りある気がします)


直克は 朝廷の意向を最大に尊重しつつ、幕府の立場を守るため、江戸湾防備からの盟友である あの一橋慶喜(後の将軍徳川慶喜)と共に幕政をリードしていきました✨


しかしながら、若さが仇となったのか、水戸の斉昭らと意見が対立し、政事総裁職となってわずか半年で罷免され、登城も禁止されてしまいました。

(え〜それは家臣も大ショック)


その後 幕府への積極的な態度は見せず、唯一戊辰戦争で慶喜が江戸へ逃げ帰り

ピンチになると、数年ぶりに登城、上京もし、朝廷へ直々に徳川家の存続を願い出ています✨

(なんてしっかりしている殿様だったのだろう…)


最後に川越城に掛けてある掛軸のわたしなりの解釈です✨↓↓↓

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『生きて盛世(せいせい)に逢う 憂い何事ぞ 

          家青山にあり 道自ずから尊し 直克』


太平の世に生まれ、この上ない大変名誉なことである。

しかしながら、今は動乱激動の時代で外国や幕府内での派閥争いに

直克もいつ責任が及び、切腹させられるか分からない。

でもそのような事態になっても、松平大和守家及び家臣たちの志は永遠に残るであろう。

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今、松平大和守家 家臣の末裔として私が思うことは、

あの動乱期に本当に先人はよく考え、耐え、思いやり生きて下さったな…ということです。


老中級2人の自刃という事件はありましたが、その他の被害は少なくこの藩の先見の明は素晴らしかったと思っています☆


こんにちの川越、東松山が平和な土地に思われるのは、この時代を生きた先人のお陰なのかもしれないと感じました✨✨


(いまは水仙のいい香りでいっぱいのお庭です・・♡)

(昨日までは蕾だったのに、一気に開花です。それは人も同じかもしれませんよね‥)


(川越城 家老詰所にある 藩主 松平直克の掛軸)



(松平直克の写真 引用 Wikipedia)

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