こんにちは!
今日も春らしい、暖かな日ですね✨
変わらずお元気でしょうか・・?
私は いま 東松山で作業をしていますが、今ようやく1/2位
完成してきたかな・・という状況です。
暖かくなって来たので、作業後、お庭で日本酒と
焼き鳥を食べるのことが、なによりも愉しみとなってきました!
さて、先日 富津陣屋跡地を伺ったので、今日は少し、
川越藩(前橋藩)筆頭老中、【小河原左宮(こがわらさみや)】について書いておきたいと思います✨
小河原家と松平大和守との関係↓↓
もともとは、秩父の武蔵七党の最も大きな集団『児玉党』の一族であった可能性が高いようです☆
そして江戸初期、初代の結城松平直基が 兄忠直より合力米を受けていた元和年間(1615~1624年)に、小河原家初代 正世が 召し出されたと言われています🍀
1640年頃の越前大野城時代、物頭、番頭となり、2代藩主松平直矩が誕生すると、
小河原正世の妻が乳母に指名されました✨
2代直矩が7歳で家督を継ぐと、正世も取り立てられ、越後村上城にて老中に任じ、
家禄も度々加増され、遂に2300の大身となりました。
(引越し大名の映画を見た方なら分かるかと思います…姫路城に引越し中、父直基が死去し、急遽、まさかの越後村上になったシーン・・この頃のことですね^^ マニアックですみません(~_~;))
当初は3000石の白井家が存在していましたが、一度断絶している為、亨保17(1732)年
以降は、小河原家が筆頭老中の座に就いたそうです。
そして、廃藩まで2300石の家禄を保っていました✨
幕末に、千葉県の富津陣屋での自刃したのは、8代目の左宮政徳(まさのり)という人で、
前橋藩だけでなく、小河原家にとっても最大の事件であったと察します。
慶応3年、亡くなる1年ほど前に 小河原左宮政徳が、藩主松平直克の前橋への転封により
川越を去る時に読んだ和歌
『子日野の まつならねども 別路に
惹かるるものは 心なりけり』
(冒頭は難しいけど、長年住み慣れた川越を想う気持ちが伝わってきます・・)
余談ですが、小河原家は、大正時代にハワイに移住したそうです★
(意外です!ハワイ愉しいよねッ♡)
皆様、こういうブログは愉しいのでしょうか・・?
愉しかったら、マイナーなブログをもっと書こうかと思っています☆笑
(参考 『結城松平家と家臣団』稲葉朝成著)
(松山陣屋内陣屋跡地の庭。訪問は、人よりも猫が多い‥)
(↑川越城の中の筆頭老中 小河原左宮政徳の人形です)
小笠原佐官について高島さんの五月のレクチャーでもご説明を拝聴いたしましたが、今回のブログで、小笠原家についてより深く理解することができました。興味深く拝読いたしました。
大正時代にハワイ❗️これはビックリです(*╹◊╹*)
小笠原家の方々は先進的だったのだろうと、小笠原家に思いを馳せました。
いろいろと詳しく調べていらっしゃって、毎回感心しています。
マイナーなブログ、大歓迎です。お蔭様で勉強になります“φ(・ω・。)
これからも楽しみにしています❤
作業は、もう1/2も完成してきたのですね!すごいですね👏✨👏✨👏✨
お庭、素敵ですね❣
ネコちゃんとお庭の構図がとても良いですね( ´∀`)bグッ!
風情のあるお庭で、日本酒と焼鳥、最高ですね。
次回のブログも心待ちにしています(*'▽'*)ノ♪♪