今日は!!!
ご無沙汰しております。
週末から広島G7にゼレンスキー大統領の来日、市川猿之助事件・・・など世間が騒がしく
すっかり私もニュースに釘付けになっていました✨
特に、猿之助事件…は軽々しく私が話せる内容ではないですが、ふとまた川越城の筆頭老中小河原左宮の切腹を思い出しました。
なので、今日はいつもの「川越の姫慈貞院宛の手紙ver」ではないブログを書きたいと思います☆
やはり小河原左宮も川越藩主 松平直克という若い殿を守りたかった事もありますが、なにより 代々 松平大和守家の老中職をしてきたという『家の誇り』を守りたかったという「真の想い」を、漸く私も少し分かった様な気がしました✨
誇りとは、「日本人が大切にしてきた事」とは聞いていたけれど、その強さに、今はただただ 畏れる気持ちでいっぱいです☆
思えば、明日は侍ジャパンWBC優勝から2ヶ月経ちますね✨
5月23日といえば、私の故郷ではまた、特別な気持ちになるのです★
それは なぜかというと、この日は幕末、飯能戦争があって、ここ松山陣屋も関わったからです★
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慶應4(1868)年、1月、京都の鳥羽・伏見の戦いから始まった【戊辰戦争】は、
官軍優勢で始まり、賊軍とみなされ動揺した旧幕府軍は、徳川慶喜が江戸へ逃げ帰ると、更に士気が乱れながら、舞台を京都から江戸開城、上野戦争、東北戦争、函館・・・と北上させて行きました。
その一方で、新政府へ恭順した徳川慶喜の名誉挽回を名目として、浅草で【彰義隊】が結成されていました。
(「大義を彰らかにする!!!」といって結成されたのが彰義隊でしたね✨)
しかし、彰義隊は 内部分裂し、新たに渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄弟。大河ドラマ「晴天を衝け」では高良健吾さんが演じてくれました)率いる【振武軍(しんぶぐん)】が結成されました✨
5月23日未明に、500人からなる振武軍と3000人の官軍が戦い、昼には、飯能の本営:能仁寺など飯能市街の半分が焼け落ち、振武軍は壊滅、渋沢成一郎らが四散しました★><
その中で、ここ松山へ姿を現した振武軍の多くは、矢が折れ、力尽き、松山陣屋へ投降したそうです。
なかでも、5月23日の渋沢平九郎の自刃は、いまも地元では有名です★
平九郎は、飯能戦争で リーダーの渋沢成一郎とはぐれてしまいました。
(晴天を衝けでも、岡田健史さんが演じ、よく描かれていました✨)
(しかし、実際はもっと格好よく、幕末のイケメンランキングでも、よく上位にいます)
※渋沢平九郎は、尾高惇忠の弟ですが、慶應3(1867)年 渋沢栄一がパリ万博へ行くにあたり、渋沢家の見立養子(相続人)となり、「渋沢平九郎」と名乗るようになりました。
そしてそのわずか1年数ヶ月後、幕末の動乱に巻き込まれて行きました★
数え年、わずか22歳の青年…
あとはお写真で・・・↓↓↓
(飯能と越生を繋ぐ、「顔振峠:かあぶりとうげ」。鎌倉時代は、源義経が奥州へ逃げる際にも通り、ここから富士山が見えたため、何度も振り返ったという事からこの名前がついたとも言われています。渋沢成一郎とはぐれた渋沢平九郎は、顔振峠に辿り着きました)
(↑ここにあった茶屋で、渋沢平九郎の最期が残されています。懐かしく故郷に帰りたかったのですね。茶屋とのやりとりも悲しいですが、辞世の和歌が なんとも美しく切ない・・・)
(こちらが、顔振峠からの景色です)
(↑その平九郎茶屋は、営業しているのかは不明でしたが、看板はありました)
(↑因みに、平九郎茶屋が2店舗あり、どちらがその舞台だったのかは、不明‥)
(↑飯能から顔振峠を下ると、越生の黒山になります。ここに、ありました)
(言葉になりませんが、、、きちんと整備されていて、参拝客が絶えない様子です)
(平九郎は、10歳の頃から、川越の剣術 神道無念流を習っていました。平九郎の姉の「みち」が、大川平兵衛(川越藩/松山陣屋の剣道:神道無念流の第一人者 )の息子と結婚し、平九郎は大川家と親戚になりました✨この刀も、神道無念流でしょうか…)
(この跡地の奥にある崖です。とても清らかで爽やかな川と風が通っていました🌿)
(ここは、黒山という場所で、近くには名勝「黒山三滝」が流れています☆)
(室町時代には、山岳宗教の修験道として使われていたそうです↓↓↓参考)
(↑川越城の家老詰所にある、筆頭家老の小河原左宮です✨戊辰戦争中、千葉の富津陣屋にて自刃しました。再掲します)
(本文:引用「前橋藩 松山陣屋」松山陣屋研究会著)
(引用「Wikipedia」飯能戦争/彰義隊/渋沢平九郎)
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すこし難しい文章になってしました><
では、梅雨前の貴重な一週間をお過ごし下さいませ〜〜〜☂✨
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