今日は✨
今日は曇り空ですが、やっぱり暑いですね・・・><
皆様、バテてはいませんか・・?
昨日に引き続き、今日も書きたいと思います☆彡
今日は少しマイナーな、川越城の家老詰所の一人、「白井元長」の白井家を紹介します☆
少し退屈な思いをさせちゃうかな・・・と思い、江戸料理とともにお伝えします(*´∀`*)♫笑
(やっぱり美味しく楽しくなくちゃ✨)
なぜ、松山陣屋顕彰会で書くのかというと、江戸後期から、ここ東松山は川越藩領だったこと、
幕末に殿様とその家臣団は前橋に引っ越しましたが、
松山陣屋のあった東松山は川越と今も親近感があり、引き続き川越城の補足については書きやすい立ち位置だからです✨
川越好きな人に便乗し、私の立場で、小江戸、武家文化の再興をお祈りしています✨(*´ω`*)
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さて、今日は一番右の白井元長の家についてです!
この白井家は、1615年〜1624年頃、家老の多賀谷左近家(室町時代に 結城家と互角に戦い、負けたのち結城家の家臣として同盟関係となった)の子を召し抱えていたそうです。
そういった背景から、白井家初代の白井元重は、幼少期より、松平大和守家初代 松平直基に召し出され、700石加増され、老中(家臣中最高の職で政務全般を総理した)となりました。
その後、2代、3代と順調に老中職につきましたが、3代で一度断絶しました。
しかし、名家を理由に1741~5年頃、松平大和守家4代 藩主松平明矩(あきのり)の命により白井家は1000石の家禄を以て再興されました。
その後、4代、5代目の白井元長(川越城にいる一番右の方)と老中に就くも、6代目は城代(老中の次座。戦時は守城を担当)までにしかなれなかったようです。
7代目となると寄合席(上級職だが、ここではプールされていたという意味)のまま役職には就かず、家禄も300石減じられ、700石になってしまいました。
8代目は順調に家督を継ぎ、奏者番(老中から藩主への上申、藩主からの通達を藩内へ下達)➔年寄➔城代➔老中と昇進するも、
1862年(文久2年)川越藩主松平大和守11代 松平直克の頃、老中を罷免され、更に300石減の400石と家禄が減っていった様です。
(切ない・・・)
(引用 結城松平家と家臣団 稲葉朝成著)
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なぜ時代の違う、白井元長が選ばれて、川越城の家老詰所にお人形が置かれたのかは、今も謎のままです💧笑
また、この白井家は、慶應4年6月12日に富津陣屋で切腹した白井宣左衛門とは、別の家ですので、お間違えなく☆笑
(時折、誤解されることがあるのです><)
因みに、家紋は丸の内一文字です!!!
(よく見てみると、浮かび見えてきます✨笑)
本日22時 NHKで
川越城についての放送があるみたいです★
興味ある方はぜひご視聴下さい〜♫
(胸のところをよ〜〜く見ると、丸の内一文字紋が!!!笑)
(江戸料理の代表とも言える、『柳川(やながわ)』という料理です。江戸時代は、ドジョウを煮ていましたが、代わりに桜海老にしました✨ 桜海老とゴボウの卵とじ✨
正規のレシピはなく、このレシピの鶏肉➔海老。ウド➔ゴボウにして料理しました)
(今はルビー色の百合が一面に咲いています)
(不思議とこの色の百合ばかりが咲き誇っています。そろそろ7月・・・という気持ちになります♫)
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