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〜酒井抱一 秋草〜 吉原編②★

今晩は。

今週も金曜日になりました☆

私事で恐縮ですが、今実家に妹と姪っ子ちゃんが来ていて、

子育て世代のママの、束の間の幸せを噛みしめる気持ちが 少しだけ分かってきました☺︎✨

体力勝負とはこのことだったのか・・・。


さて、吉原について、今夜も書きたいと思います🌻


吉原遊廓誕生の立役者:庄司甚内(しょうじじんない)は、どんな人だったのかというと、

相模国出身で、もともとは 小田原北条家に仕えていた家臣だったそうです。


15歳の時、父を亡くし、それをきっかけに江戸に出て、遊女屋を開業するに至ります☆


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江戸の遊女屋の背景として↓↓↓


1600年頃、江戸に幕府が開かれると、日本の中心は上方から、江戸に徐々に

移りはじめました。


江戸城の改築のために多くの人が集まってきましたが、男性ばかり、、。


これに目をつけた、駿河や京都の遊女屋が 徐々に江戸に移ってきました。


そして今でいう、麹町、神田、京橋あたりの遊女屋が大いに栄えていったようです。


その事に対し、将軍 徳川家康は「日本中から人が集まってくる以上、政治権力だけで取り締まることは困難だから、不都合のないうちはそのままにしておけ」と黙認していたそうです。


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そんな中、江戸の発展を見通していた代表格 庄司甚内が、幕府公認の遊女町としての設立要望書を幕府に提出しましたが、簡単には認められませんでした。


それに対し、庄司は「盗みや関が原の戦いの西軍の残党、身売りなどを取り締まれる」と江戸の治安維持の一翼を担えると更に主張します。


(うん・・・気が強いですね!!)



そして大阪の陣が終わった1617年、漸く幕府から遊女町として公認されました。


幕府としても、繁盛し続ける遊女屋を放置するより、監視下にする体制を選んだようです

☆☆☆

(なるほど、幕府公認とは治安維持のためだったのですね!!!納得✨)

           (参考『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』)

〜つづく〜

                  


                

      ( 酒井抱一『松風村雨図』細見美術館蔵 )

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