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🐌川越城 小河原左宮のこと🌝

更新日:2023年3月10日

こんにちは!

今日も春らしい、暖かな日ですね✨

変わらずお元気でしょうか・・?


私は いま 東松山で作業をしていますが、今ようやく1/2位

完成してきたかな・・という状況です。


暖かくなって来たので、作業後、お庭で日本酒と

焼き鳥を食べるのことが、なによりも愉しみとなってきました!


さて、先日 富津陣屋跡地を伺ったので、今日は少し、

川越藩(前橋藩)筆頭老中、【小河原左宮(こがわらさみや)】について書いておきたいと思います✨


小河原家と松平大和守との関係↓↓


もともとは、秩父の武蔵七党の最も大きな集団『児玉党』の一族であった可能性が高いようです☆


そして江戸初期、初代の結城松平直基が 兄忠直より合力米を受けていた元和年間(1615~1624年)に、小河原家初代 正世が 召し出されたと言われています🍀


1640年頃の越前大野城時代、物頭、番頭となり、2代藩主松平直矩が誕生すると、

小河原正世の妻が乳母に指名されました✨


2代直矩が7歳で家督を継ぐと、正世も取り立てられ、越後村上城にて老中に任じ、

家禄も度々加増され、遂に2300の大身となりました。


(引越し大名の映画を見た方なら分かるかと思います…姫路城に引越し中、父直基が死去し、急遽、まさかの越後村上になったシーン・・この頃のことですね^^ マニアックですみません(~_~;))


当初は3000石の白井家が存在していましたが、一度断絶している為、亨保17(1732)年

以降は、小河原家が筆頭老中の座に就いたそうです。

そして、廃藩まで2300石の家禄を保っていました✨


幕末に、千葉県の富津陣屋での自刃したのは、8代目の左宮政徳(まさのり)という人で、

前橋藩だけでなく、小河原家にとっても最大の事件であったと察します。


慶応3年、亡くなる1年ほど前に 小河原左宮政徳が、藩主松平直克の前橋への転封により

川越を去る時に読んだ和歌


『子日野の まつならねども 別路に

       惹かるるものは 心なりけり』


(冒頭は難しいけど、長年住み慣れた川越を想う気持ちが伝わってきます・・)


余談ですが、小河原家は、大正時代にハワイに移住したそうです★

(意外です!ハワイ愉しいよねッ♡)


皆様、こういうブログは愉しいのでしょうか・・?

愉しかったら、マイナーなブログをもっと書こうかと思っています☆笑


(参考 『結城松平家と家臣団』稲葉朝成著)

(松山陣屋内陣屋跡地の庭。訪問は、人よりも猫が多い‥)





(↑川越城の中の筆頭老中 小河原左宮政徳の人形です)

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