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🌸川越城 松平斉典のこと🍒

更新日:2023年4月20日

皆さん、こんにちは✨

今日も暖かいですね✨

今週には少しずつ桜が開花するそうですね‥見逃さないようにとソワソワしてきました🌸


さて…今日は突然ですが、川越藩4代 松平斉典のことを書いておこうと思います✨


松山陣屋には、藩校博喩堂の分校があったので、資料館にも ゆかりのものを一部展示したいと考えているのですが、やはりそうするためには松平大和守8代松平斉典の顕彰も大切だと気がついたのです✨


調べるうちに、川越城本丸御殿や川越氷川神社の本殿も斉典の功績のようで、すごく嬉しくなってきました♪


↓↓説明です

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松平斉典は、1797年(寛政)11月 川越2代藩主直恒の3男として生まれた。

前藩主であり兄の直温(なおのぶ)の死後 養子となり文化13年(1816年)6月、家督を継いだ。

斉典は松平家歴代藩主中でも、藩の改革を積極的に推し進めた屈指の人物として著名。


<斉典の改革>

・困窮する藩財政の再建を試み、緊縮、倹約を奨励し豪商 横田五郎兵衛を勘定奉行格に任命し、藩財政の改革を進めた。


・また農政改革に着手し、藩士 安井政章に命じて川島に鳥羽井堤を築造し、水田を開発した。


・文政10年(1827) 川越城大手門外に藩校「博喩堂」を創設し、文武振興と士道精神の教育を図った。


・斉典には、莫大な費用が掛かる異国船渡来に備えての沿岸整備と、飛び地が点在する川越を離れて、豊穣の地へ転封したいという野望があった。

そのため斉典は実子(じっし)がありながら、将軍家斉の24男で5歳である斉省(のちに家督を継がず早逝)を養子に迎え、世継ぎとした。


「三方領地替え」とは  ・庄内藩酒井家→越後長岡へ。

            ・長岡藩牧野家→川越へ。

           ・川越藩松平家→庄内出羽へと三つの藩を同時に入替える政策を試み、出羽庄内への移封が決定した。


しかしながら、前代未聞の出羽庄内の領民による激しい反対運動が起き、幕府も転封命令を撤回せざるを得ない状況に陥った。前代未聞の転封取消となったが、引き換えに川越藩は2万石加増され、松平大和守家は、ここに17万石の大名となった。


藩校博喩堂」を開設し、藩儒・保岡嶺南に命じて川越版『日本外史』を刊行させ、盲目の医師で国学者の沼田順義を藩に招いた。


・西大手門に目安箱を置いて衆庶の声を藩政に取り入れるなど、「好学の名君」と謳われた。

・現在の川越城本丸御殿や川越氷川神社の本殿、川越百万灯夏祭りも斉典の功績。


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なんだか、頭の整理みたいで申し訳ないですが、掲載させて頂きました✨


歴史はあまり好きでない私が、このように書く様になったのは我ながら不思議に思うこともありますが、でもなぜ時々過去の歴史を書くのかというと、私なりに考えてきた【今をよく生きる、ベストな生き方】に思うからなのです☆


以前、『着物は経糸と緯糸を織りなして作られる、日本人の精神の縮図』と習いました。


そこで、私は「日本には代々紡いできた経糸(たていと)があって、今を生きる私達である緯糸(よこいと)を織りなして出来上がる、織物の美しさを見てみたいなあ」と・・思ったのです✨


仕事、家庭、旅行、子育て、介護、イベント…など忙しい日常ではあるけれど、その余った時間で、先祖や先祖ゆかりの人を顕彰する時間を作れたらと良いな・・と思っています!!


今週も良い週にしていきましよう♪✨


            (引用 松平斉典像 孝顕寺蔵)

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