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🌟牡丹に孔雀の図🌟

更新日:2022年8月6日





では、4/15のイベント当日に紹介させて頂きます

お軸について、簡単に事前に説明致しますね✨



作者は、沈南蘋(シン ナンピン)という人で、江戸中期の画家です。



彼は、1731年 (享保16年) 頃、清国から長崎に渡来して、2年間弱滞在し

写生的な花鳥画の技法を伝えました。


そして、中国語の通訳をしていた熊代熊斐(くましろ ゆうひ)、ただ一人にその技法が伝え、弟子らが南蘋派を形成しました。


それが後に 円山応挙伊藤若冲など有名な画家に多大な影響を及ぼす事となっていきます。


まず、生い立ちですが、沈南蘋は、絹織物商だった父のもとに生まれ、胡湄(こび。中国清代の画家。沈南蘋の師)と出逢います。



父は、息子を連れて胡湄の家に行くたびに、彼の描く様子を傍らで見続け立ち去らない南蘋の姿を見て、胡湄に入門させたと伝わっています。


その後、沈南蘋は、宮廷画家として清朝に仕えていましたが、8代将軍吉宗の時、徳川幕府から招聘を受け、享保16年(1731年)長崎に来日、帰国するまで約2年間、唐館内に滞在しました。





吉宗は絵画を好み、中国画人を呼び寄せて宋元画に近い絵を描かせようと考えました。


そこで清国側で選ばれた人が、沈南蘋です。




南蘋の精緻で華麗な彩色画は、たちまち評判


となりました。


その後、熊斐(ゆうひ)を通じてその技法を学んだ者が南蘋派を形成し、江戸中期の日本画壇に大きな影響を及ぼしました。


南蘋の帰国後もその人気は衰えず、度々輸入されたと聞いています。



将軍吉宗が呼び寄せ気に入られたという経緯から武家にも好まれ、松平大和守家と三方領地替えを繰り返ししていた酒井雅楽頭家酒井忠以(ただざね)もその一人でした。


そのため、私の先祖が仕えていた松平大和守家にも残り、伝わってきたのかなと私は推測しています。



それでは、当日、絵や作者から、沈南蘋は私たちに何を伝えたかったのか

正しい答えは分かりませんが、感じて頂けたらと嬉しいです✨✨✨







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